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2016.06.30

バルフルールからガットヴィルの灯台へ8

海沿いの道を歩いていると、バルフルールの港の突先で見たのと同じような十字架が立っていた。
海難事故の慰霊なのか?
無事祈願などのお守りなのか?
布教中の受難が昔あったのか?
バルフルール
脇奥に、ガットヴィルの灯台が見えている。

十字架とガットヴィルの灯台。
少々物悲しい風景だ。
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2016.06.29

プラハ Letenská レテンスカー通りを行くトラム

坂のある建物脇のカーブを駆け下るトラム。
そんなシーンを撮りたくて、プラハまでやってきたが、なかなかそういうシーンに遭遇しない。
プラハ
通りかかった、マラーストラナの坂下。
トンネルをくぐったトラムが、鋭角に曲がってゆく。

結構、迫力のある、かっこいいシーンなのであるが、写真に撮ると、どうも、間の抜けた感じになってしまう。
しかも、夕方でぶれる。

どう撮ったらいいのか?
試行錯誤してみたが、いい案は出ない。

何枚も同じようなものを撮り続けることに。
2016.06.28

ヴォー・ル・ヴィコント城 図書室

本がぎっしり詰まった戸棚。
図書室は、落ち着くところが多いのだけれど、ここは、シャンデリアと天井画と床の市松模様がずいぶんと主張していて、ごちゃごちゃした感じですね。
ヴォー・ル・ヴィコント城
図書室だけなら、先日も載せた、コンピエーニュの方が、落ち着いていていいですね。
きっと、こちらのほうが豪華なんでしょうが。

それでも、部屋を暗くして、照明を落として、机を日本の図書館のようにぎっしり並べたら、雰囲気変わるのかもしれません。


2016.06.27

サン・ローの城壁の上

城壁の上は公園になっている。
以前は、何か立っていて、戦争で破壊されたのかもしれない。
サン・ロー
現在は、花壇に花が咲き乱れ、憩いの場になっている。
憩いの場というのもあるのだろうが、空いたスペースが花壇で埋まっている。
そうともとれる。
人の心に空いた虚ろのようでもある。
2016.06.26

アジャーネ村のカーヴ経由で2

カーヴの中へ。
試飲販売しているが、車の運転があるので、同乗者のみの特権になる。残念。
ミネルヴ
ここで買って、日本に送ってもらったらどうなるのか?
そう思って聞いてみる。
日本に送ることはできるが、運賃が高すぎてばからしい。
持って帰ったほうが良いよとのこと。

ならば、どうやって持って帰るのがいいのか?
そう聞いてみたら、タオルとかでくるんで、スーツケースの中が一番安全とのこと。
実際、そうやって帰ってくると、われずに成田空港でスーツケースを受け取れた。
ミネルヴ
オレンジジュースの蛇口ならぬ、ワインの蛇口。
ポリ容器に入れて、量り売りもあるのだ。
2016.06.25

マンステール 紅葉

オロ村から、ランガエケルル径を帰ってくる。
この道が、マンステールとオロ村の境のよう。
右の平地はマンステール。
ひだりの森林はオロ村。
マンステール
しばらく下って、振り返ってみると、黄色く色づく紅葉が。
マンステール
さてさて、この村の別の見どころ、コウノトリに会いに行きましょう。
2016.06.24

Square Caulaincourt コーランクール広場の階段

スカール(square)は、英語で言えばスクエアになるのだろうか。
公園というか広場というが、日本的に言えば、どちらも当てはまる。
もっとも、公園の場合、小さな公園と日本では呼ばれるだろう。
パリの道
ここは、広場というより、通りといったほうがいい。
その”通り”の中央部分は、長い長い階段になっていて、下と上に緒としたスペースがある。
下には、レストランのテーブルが申し訳程度に出没しているが、上は、広場と呼ぶにふさわしいテーブルの盛況ぶり。

でも、ここの特筆すべき風景は、この、長い長い階段だろう。
したから見る階段は、どこまでも続き、先の見えないラビリンス感満載の、モンマルトルの中でも、”らしさ感”あふれる場所である。
2016.06.23

バルフルールからガットヴィルの灯台へ7

緑の草と海とガットヴィルの灯台と。
バルフルール
この辺りから、ガットヴィルの灯台と何かというテーマで写真を撮りながら、道中を進むことになる。
そうでなければ、ただただ、でかくなってゆく灯台を撮るだけになっちゃうからね。
2016.06.22

パルドゥビツェ大障害へ

パルドゥビツェといえば、障害競馬の競馬の街。
たんにチェコで有名というわけではなく、世界的有名レースである。
むろん、地元はもちろん、プラハからも、諸外国からも多くの観客がやってくる。
パルドゥビツェ
10月の第2週。
日本からこれを見に来た。
そう言ったときの観光局のお兄さんのうれしそうな顔が忘れられぬ。
パルドゥビツェ
お祭り騒ぎである。
出店がいっぱい出て、チェコの地場の食べ物やお菓子などが食べられる。
フランスのトロットレースのGNTシリーズもそうだが、競馬場で、イベントをやっていることも多い。
正直、高級感あふれるレースも悪くはないが、庶民的なお祭り雰囲気の競馬場の方が、心から楽しくなる。
パルドゥビツェ
この日勝った馬は、フランスの牝馬だった。
この馬、圧倒的強さでのちに3連覇を飾ることになる。
パルドゥビツェ
そして、落馬したジョッキー。
とはいえ、この人、チェコの英雄。
この時も人気の一角。
熟練のチェコ人ジョッキーに惜しみない拍手が贈られる。
それにこたえて手を振るジョッキー。

障害競馬のいいところは、勝っても負けても、挑んだことが称賛されることだ。
2016.06.21

ヴォー・ル・ヴィコント城 ヘラクレスの間

ヘラクラスの部屋というのらしい。
ここも、天井含めて素晴らしい部屋だ。
ヴォー・ル・ヴィコント城
フェルメールの絵のような、この市松模様というのは、こうした人たちに好まれたのですかね。
個人的にも、好きなデザインですけど、周囲には、落ち着かないと一蹴されそう。

もっとも、ヘラクレスと名の付く部屋が落ち着いた雰囲気にはならなそうですね。
2016.06.20

サン・ローの壁と戦争

町の西側に駅がある。
町の中心は丘になっており、駅と川を挟んで対峙するように丘がある。
サン・ロー
その丘は、城壁で囲まれた要害となっている。
ここは激戦地となり、空襲もあったようだ。
サン・ロー
ドイツ軍と連合国軍の闘いで城壁は無残に破壊された。
そのころの写真だろう。
あちらこちらに飾られている。
サン・ロー
ノルマンディを旅すれば、こうした写真が飾られていることは珍しくない。
街の顔でもある壁は修復された。圧倒的な存在感で、街を見下ろしている。
2016.06.19

アジャーネ村のカーヴ経由で

ミネルヴ村からカルカッソンヌへの帰り道。
山を下りてくると、ミネルヴの隣村、アジャーネAzillanetを通過する。
どこかのカーヴでワインを買って帰ろうと思っていたが、行きにいくつか見かけたから、どこかにあるだろうと車で下ってきた。
ミネルヴ
見つけたから、すかさず入る。
Cave Les Trois Blasons
レ・トロワ・ブラゾン。
ミネルヴ
これ、ブドウ積んでくるやつですね。
2016.06.18

マンステールのトラムとは

オロ村の丘から帰ってくる途中、こんな看板を発見。
この田舎町で、夢のような鉄道ファンがいるのだろう。
マンステールの町から、山々の村を巡るトラム。

これがあれば、移動も買い物も便利。
そんな夢のお話。
マンステール
そう思って写真を撮ったのだが、そうではなかった。
これは、実在していたのである。

この看板に書かれているように、MUNSTERマンステールから、SCHLUCHTシュルシュトまでトラムが走っていたのだ。
100年以上前のアルザスのドイツ時代のことである。
さらに、シュルシュトで乗り換えその先まで、トラムは続いていたようなのだ。

220パーミルという勾配だったのだろうか?
まあ、普通の坂道ではないですね。
Cremaillereとなっているから、アプト式だったんでしょう。
2016.06.17

シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワール橋からベルシー橋を眺める

橋単体としては、最もフォトジェニックな橋ともいえるベルシー橋。
背後に、新国立図書館というのが、一番絵になるだろう。
その写真は、もう、ここのブログにアップしたと思うから、その反対。
パリの道
シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワール橋は、セーヌ最新の橋。
だから、このベルシー橋の風景も、新しいパリの写真の一つといえる構図だと思う。

さりげなく、ノートルダム寺院が見えていることに、後で気が付く。
望遠で、もっともっと寄ってみたら、もっと違う画が見えたに違いない。
2016.06.16

バルフルールからガットヴィルの灯台へ6

ガットヴィルの灯台へ向かう途中、浜辺が現れた。
といっても、砂浜ではなく、砂利浜である。
バルフルール
ジワジワとやってきたのであろう、波の跡が幾重にも。
その向こうには、ガットヴィルの灯台の一本線が見えている。
バルフルール
ここは、岩場ではないと思ったら、遠浅の海になっているようだ。
船は、その浅瀬に集まる魚か貝を獲っているのか?
それとも、穏やかな波を求めて、この湾へやってきたか?
でも、休憩しています!というような雰囲気ではないですね。
2016.06.15

第1次世界大戦中のトラム

トラム博物館の奥に、貨物列車が。
そう思ってみると、これにも年代札が貼られていました。
1917といえば、第一次世界大戦中。
プラハ
どれもこれも、大戦や冷戦といったカテゴリーに当てはまるものばかり。
欧州もそれ以外も、人々は争ってきたことが歴史なのかもしれません。

石炭を運んだのか?
木材を運んだのか?
弾薬を運んだのか?
農作物を運んだのか?

いわゆる長距離列車ではない、町中のトラムにも、このような車両があったんですね。
2016.06.14

ヴォー・ル・ヴィコント城 女神の部屋 シャンブル・デ・ミューズ

壁色から青の部屋といった雰囲気。
ここは、天井、シャンデリア、タピスリーの豪華3点セットが圧巻。
ヴォー・ル・ヴィコント城
ブルー基調に、赤い椅子が印象的。

いつも思うことではありますが、こうした正面を向いて椅子が置いてあることが多い。
展示のためなのか?これが基本配置なのか?
よく見ますよね、この向き。

顔を合わせぬよう、ご婦人たちがお茶でもしたとしたら・・・。
脚は組まぬほうがいいですよ、腰に悪いから。

そんな気分になるイスの向き。
2016.06.13

Saint-Lo サン・ロー拠点で

バスノルマンディは3つの県からなる。
この県ごとに、公共バスが走っている。
サンローは、マンシュ県の県都である。
サンロー
ここを拠点に、今回は観光することにした。
サントメールエグリーズ。
グレーニュ。
モン・サン・ミシェル。
その対岸であるジュネ。
これらが目的地だが、それ以外も周れれば・・という計画だ。
サンロー
その点、サンローからは、バス便が充実しているし、鉄道もある。
この駅前から、シェルブール、グランヴィル、アヴランシュ方面へ伸びている。
3日券などを使えば、安く効率よく周れるのだ。
2016.06.12

ミネルヴ村の路地から4

路地の向こうに車が止まっている。
日本でも、地方では車が必需品。
フランスでは、必需品というか、なければお話にならない場所も多い。
ミネルヴ
パリの通りでも、こうした田舎の美しい村でも、写真を撮っていれば、車が入ってくるのは、フランスらしいともいえる。
いやぁ、通りにまるで挟まるように、なじんでますねぇ。
2016.06.11

マンステール郊外オロ村の丘

とても気に入った丘を、斜めにして撮ってみた。
マンステール
朝起きて、この風景が2階の窓から広がっていたら、さぞかし気分よかろうと思うのだ。
色づくところは、きっと紅葉でしょうね、写真は10月なので。

とりあえず、満足したところで、引き返すことに。
マンステールへ戻り、ケーキを買って、コルマールへ戻らねばならない。
2016.06.10

Passage de la Brie ブリー小路

パリ19区。
新しいレンガの敷き詰められた、一方通行の小路がある。
モー通りからの見た雰囲気が良かったので1枚。
パリの道
この道は入ってゆくと、途中からまっすぐ伸びる。
やはり、先が見えないという不安が、妄想の幅を広げてくれる分、道の雰囲気は上がる。
パリの道
そんな道の写真を撮るときは、必ず、撮る前か、撮った後に通り名の道しるべを撮影する。
しないと、何通りかわからなくなっちゃうからね。
前後どちらであっても、撮っておけば、確認のしようもある。

ところが、そこに、こんなことが書かれていた。
外車進入禁止。

いやいや、日本車やアメ車はおろか、ベンツもワーゲンもフェラーリも入っていけないということですかね。
もっとも、こちらからは、一方通行で、ルノーもシトロエンも入っては来ませんが、通りの向こうからやってくるのは、フランスの車ばかりなんですかね。

フランスの政治力ある車関係の人が住んでいたのか?
国粋主義者が住民だったのか?
それとも、なにか、悲しい歴史があったのか?

パリ東部、イルドフランス地方のブリーチーズのブリー地方からとられたと思われるこの小路にも、歴史あり・・・。
2016.06.09

バルフルールの街遠望

赤茶けた岩の海岸をあるいていたら、和歌山の千畳敷のような平らな岩盤が現れた。
水平線と岩盤で一枚撮ろうと思っていたら、湾の向こうにバルフルールの街が見えていた。
バルフルール
随分歩いてきたものだと思う。
ただ、これは広角レンズ。
実際よりずいぶん遠くに見えている。
それでも、歩いたな!という感覚に囚われるには十分。
実際、ここまで、歩いた時間は大したことないのだが・・・。

先の灯台はまだまだである。
2016.06.08

Pod Sklípky カーヴ・トンネル

パルドゥビツェの市庁舎広場の裏手。
建物の下に、トンネルができている。
Sklípkyというのは、ワインの貯蔵庫などの意味があるらしいから、このトンネルが以前は、ワインカーヴだったのかもしれない。
パルドゥビツェ
そんなトンネルの入り口の車止めらしきポールが立っている。
この弾丸のような形をした車止めは、まるで、鉄兜を被ったお巡りさんのようでもある。
たとえ、ここを通過できるサイズであったとしても、通ってはならない。
彼が立っている位置も、なんだかちと微妙な位置である。
2016.06.07

ヴォー・ル・ヴィコント城の屋根の上から

らせん階段を上ると、屋根の上へ出る。
ベランダというには狭い。
中央の丸屋根の上だ。
ヴォー・ル・ヴィコント城
ここからの眺めが、庭園を見るには最もいい。
こうして眺めると、ずいぶんと広いお庭ではあるが、ヴェルサイユと比べると、こちらは、ほどを知った人間の範囲にとどまっている巨大さである。
ヴォー・ル・ヴィコント城
もし、ヴェルサイユが、こちらに勝っているとしたならば、それは、面積と建築費だけではないか?
そう思わせる。
ルイ14世は、ヴェルサイユを作ったところで、とても溜飲を下げることにはならなかったろう。

もっとも、あれだけの王である。
あくまで、この城のことは、粛清のためのきっかけにしただけだったかもしれない。
2016.06.06

コンピエーニュ競馬場にて

お城の庭の先にある競馬場。
お城見学ついでに訪れる観光客のひとも。
コンピエーニュ
森の中の競馬場といった雰囲気。
その大きさは、結構なもので、フランスでも大きなほうではないだろうか?
コンピエーニュ
レース前に、1頭の馬が放馬。
随分とあちらこちら、走り回って、舌をだしながら戻ってきた。
完全に、人をなめているのかもしれない。
コンピエーニュ
日本だったら、この馬出走取消になりそうだが、ちゃんと出走した。
そして、きっちり馬券に絡んできた。
力有り余ってるんですね。
2016.06.05

ミネルヴの石垣、総構え

こうやって下から見上げると、完全に城ですね。
ミネルヴ城。

先日言った小田原城も、総構えが有名。
ちょうど、大河の真田丸も、小田原城攻めに話が進みそうで、偶然とはいえ、タイミングが良かった。
ミネルヴ
日本には、城壁に囲まれた町はないのだと思っていたのだが、総構えで調べてみると、結構ある。
石垣、土塁、堀他で町の一部を囲っていたりしたのだと、改めて知る。

小田原の交差点の名前にも、早川口とか、箱根口とか、そんな地名がある。
パリの街で言えば、ポルト(門)に当たるのが、口ということだ。

それでも、この小さな村の遥かなる高さの壁にはかなわない。

地つながりで、いったいそもそも、その土地は誰のものなのか?
どこの所属なのか?

大陸は、常に、そうした、異民族や隣人との闘いから、守らねばならない状況だった。
島国の中は日本で、異民族を神風で撃退した歴史とは、少々違うのであろう。
2016.06.04

マンステールの日の丸

マンステール郊外の丘まで歩いて来て、日の丸を見つけた。

こんな、金属ステッカーをフランスでは売っているのか?
ともあれ、日の丸越しに、マンステールの街を望むというタイトルの写真を撮った。
マンステール
少し上がると、もう一つ、赤丸が。
矢印の先は、HOHRODオロ村とSOULTZERENゾウルツェレン村。
クリュブ・ヴォージャンはおそらく、ヴォージュ地方の少年団なのかボーイスカウトあたりなのではと推測する。
それとも、トレッキング、ハイキングクラブか?
マンステール
日の丸は、道しるべなんですな。
決して、日本のマークではなさそうです。
ただ、こうして、歩く歩く文化の一端をかじることになると、フランスで、ランドネ!ってな気分にほんの少しだけなれますね。
2016.06.03

Rue du Faubourg Saint-Honoré フォーブール・サントノレ通りのエルメス本店屋上に

ちょうど、ロワイヤル通りを通っていると、フォーブール・サントノレ通りとの交差点から、何やら馬と旗が見えた。
見てみれば、エルメスの文字。
どうやら、あそこが本店らしい。
パリの道
ギャンブル依存症に、一家崩壊とか、日本ではとかくイメージの悪い競馬であるが、エルメスといえば、競馬そして馬術。
馬とブランドのつながりは、それ以上ないほど強い。
そんなことが、覗いたファインダーの先の風景が物語っている。

自身、ファッションやデザインに興味があっても、ブランドそのものには、まったく興味がなかった。
競馬を通して、ブランドそのものにも興味が沸くようになったのだ。
2016.06.02

バルフルールからガットヴィルの灯台へ5

海岸沿いの道に、こんな畑があった。
潮風は、あまり問題ないんですかね?
農業には全く疎いため、海沿いだと、車がさび付いてしまうみたいな感想とおなじ感触を持ってしまう。
バルフルール
そういえば、疎いどころか、畑の横を歩くということ自体、日本ではまったくなかったし、フランスへ旅しても、歩いている割には、野っ原か、がけか、車通りの多い道か、町中ぐらいしか記憶ない。
いやいや、ブドウ畑やリンゴ畑か麦畑の脇は歩いてますね。

こう、がっつりと野菜がゴロゴロしているシーンは、あまりお目にかかっていないから、新鮮だったのかも。
2016.06.01

プラハ 大戦中のトラム

トラム2号線の車両である。
プラハ
この車両は1942年製。
とすると、戦中だったことになる。

1942といえば、ナチスの保護下におかれていた時代であろう。

前回載せたトラムの車両の記事jは、戦後のソヴィエト影響下のものだった。

だが、御覧の通り、トラムは、かたくなまでに、その姿を大きく変えてはいない。
そして、どの時代のものも愛らしい。

そのあたりに、チェコの人の本質があるかもしれない。
プラハ
行き先なのか?
ヴィノフラディと書かれている。
プラハ駅裏の、高級住宅街であろうか?
あそこの坂道を下るトラムも、良い絵が撮れるのだが、このトラムも、人々を乗せて、変わらぬ風を切っていたのだろうか?
それとも、時代が違えば、同じ建物の前を走るトラム脇を流れる空気も、雰囲気も、違ったのだろうか?