2016.03.31
バルフルールの港にて
2016.03.30
パルドゥビツェ城へ
2016.03.29
平日にバスでヴォー・ル・ヴィコント城へ3
モー道路を歩いていると、右側の道にバス停を発見。
Rue des Trois Moulins(トロワ・ムーラン通り)

もっと、ヴォー・ル・ヴィコント城に近いバス停があったんだ!
バス停名はBertagnesベルターニュ。
帰りは、このバス停から帰ることにして、近くまで行って、時刻なども調べておく。
路線はG線である。

結局、ネットで調べてみると、もう少し近い場所までバスで行けたようだ。
Les Ponceauxというバス停らしい。
しかも、そちらは、幹線道路ではないから、安全だったかもしれない。
行っていないから、安全かどうか?わかりませんけどね。雰囲気的にたぶん。
G線のすべてのバスがこのバス停まで行くわけではないらしいから、MELIBUSのサイトを調べてから行くことである。
Rue des Trois Moulins(トロワ・ムーラン通り)

もっと、ヴォー・ル・ヴィコント城に近いバス停があったんだ!
バス停名はBertagnesベルターニュ。
帰りは、このバス停から帰ることにして、近くまで行って、時刻なども調べておく。
路線はG線である。

結局、ネットで調べてみると、もう少し近い場所までバスで行けたようだ。
Les Ponceauxというバス停らしい。
しかも、そちらは、幹線道路ではないから、安全だったかもしれない。
行っていないから、安全かどうか?わかりませんけどね。雰囲気的にたぶん。
G線のすべてのバスがこのバス停まで行くわけではないらしいから、MELIBUSのサイトを調べてから行くことである。
2016.03.28
コンピエーニュ宮殿 皇帝の図書室
2016.03.27
ミネルヴを切り取ると
望遠レンズでミネルヴ村を切りとると、オレンジのかわいらしい屋根と石壁が見える。
このオレンジの瓦屋根は、みな、同じ角度で並んでいて、平行線を保っている。
これが、この村のかわいらしさと統一感をより際立たせている。

さらに、もっと別のところを切り取ってみる。
そうすると、壁に、狭間のような、へこみがいくつも見られる。
ここの、おそらく、敵から守るためにこうしたものを作らざるを得なかったのだろう。

ただ、この狭間、いまでは、植物の鉢を置く台となっている。
転じて、平和の象徴といえるのかもしれない。
東西の壁が崩れ落ちた。
それから、民族意識が高まった。
それとは逆に、経済はグローバル化し、EUは統合。
ひずみは、新たな有形無形の壁を生む。
こうして、壁は平和有効活用してほしいですね。
このオレンジの瓦屋根は、みな、同じ角度で並んでいて、平行線を保っている。
これが、この村のかわいらしさと統一感をより際立たせている。

さらに、もっと別のところを切り取ってみる。
そうすると、壁に、狭間のような、へこみがいくつも見られる。
ここの、おそらく、敵から守るためにこうしたものを作らざるを得なかったのだろう。

ただ、この狭間、いまでは、植物の鉢を置く台となっている。
転じて、平和の象徴といえるのかもしれない。
東西の壁が崩れ落ちた。
それから、民族意識が高まった。
それとは逆に、経済はグローバル化し、EUは統合。
ひずみは、新たな有形無形の壁を生む。
こうして、壁は平和有効活用してほしいですね。
2016.03.26
マンステールの丘の上から2
2016.03.25
Avenue de Friedland フリードラン大通りから凱旋門を望む
2016.03.24
バルフルールの十字架
2016.03.23
プラハ トラム博物館 1948年の22番線
行き先が、Bila Horaなっていうる。
BilaはきっとVillaであろうから、町か村で、Horaは山のようなので、山の村ということになる。
だが、おそらく、高級住宅街であったかどうかはともかく、いいとこだったのではないか?そう思わせる。

山の手はいつも高級住宅街なのだ。
どの町も、西に高級住宅街があって、東に庶民の下町がある。
プラハも、その形から漏れることはなさそうだ。

もっとも、洋の東西は問わずとも、南半球では、別なのだろうか?
太陽が東から登る限り、変わらぬような気もする。
1948年のトラム。
日本は戦後復興ただなかである。
ということは、チェコは共産化への道をまっしぐらだった時代ということだ。
そう考えると、Bila Horaは優雅な街だったわけではないのかもしれない。
BilaはきっとVillaであろうから、町か村で、Horaは山のようなので、山の村ということになる。
だが、おそらく、高級住宅街であったかどうかはともかく、いいとこだったのではないか?そう思わせる。

山の手はいつも高級住宅街なのだ。
どの町も、西に高級住宅街があって、東に庶民の下町がある。
プラハも、その形から漏れることはなさそうだ。

もっとも、洋の東西は問わずとも、南半球では、別なのだろうか?
太陽が東から登る限り、変わらぬような気もする。
1948年のトラム。
日本は戦後復興ただなかである。
ということは、チェコは共産化への道をまっしぐらだった時代ということだ。
そう考えると、Bila Horaは優雅な街だったわけではないのかもしれない。
2016.03.22
ヴォー・ル・ヴィコント城へバス停から歩いて
2016.03.21
コンピエーニュ 皇帝の寝室
金色というのは、ワインレッドや、深緑、紺色との組み合わせで、ずいぶんと高貴なイメージになる。
紫もその一つだろう。
これらは、オーソドックスな組み合わせであろう。
いろんな、色の組み合わせが、フランス中にあふれている。
この色の組み合わせはいいなと思うものを探してい行くと、自分にとって、意外な組み合わせを発見することができる。

さて、赤い寝室。
赤だと、興奮して、寝つきが悪いのではないか?などと、思ってしまうのだが、こうした部屋も、きっと、自己悦に浸るためのものではなく、見せるものであったのではないか?と思うのである。
個人的には、あそこで、毎日寝るのは、とても落ち着かないが、どうであろう?
ナポレオン1世の寝室であるそうだが、常人ではない人は、そのあたり違うのかもしれない。
もっとも、3時間しか寝なかったナポレオンという話は、この赤色に起因する、”寝れなかった”なのかもしれない。
紫もその一つだろう。
これらは、オーソドックスな組み合わせであろう。
いろんな、色の組み合わせが、フランス中にあふれている。
この色の組み合わせはいいなと思うものを探してい行くと、自分にとって、意外な組み合わせを発見することができる。

さて、赤い寝室。
赤だと、興奮して、寝つきが悪いのではないか?などと、思ってしまうのだが、こうした部屋も、きっと、自己悦に浸るためのものではなく、見せるものであったのではないか?と思うのである。
個人的には、あそこで、毎日寝るのは、とても落ち着かないが、どうであろう?
ナポレオン1世の寝室であるそうだが、常人ではない人は、そのあたり違うのかもしれない。
もっとも、3時間しか寝なかったナポレオンという話は、この赤色に起因する、”寝れなかった”なのかもしれない。
2016.03.20
ミネルヴ村の大橋 Pont grand
2016.03.19
マンステールのナーランスタン通り
2016.03.18
モンパルナスタワーからアンヴァリッド方面を望む
2016.03.17
バルフルールの朝
2016.03.16
パルドゥビツェ Bartolomějská バルトロニェイスカー通りにて
2016.03.15
平日にバスでヴォー・ル・ヴィコント城へ
2016.03.14
コンピエーニュ宮殿 執務室
2016.03.13
ミネルヴの村の風景
2016.03.12
マンステールの丘の上から
2016.03.11
Avenue de Clichy 3本のクリシー通り
プラス・ド・クリシー(クリシー広場)。
ここから、3本のクリシー通りが伸びる。
まずは、Rue de Clichy。リュー・ドゥ・クリシー。
広場から9区をパリの中心へ下ってゆく。
次に、Boulevard de Clichy。ブールヴァール・ドゥ・クリシー。
環状通りで、9区と18区の境をなす大きな通りだ。
最後に、Avenue de Clichy。アヴニュー・ドゥ・クリシー。
17区と18区の境を形成し、パリの外側へ下ってゆく。
すべて、クリシー通りということだ。

メトロ13号線の分岐点、ラ・フルシュ駅付近から、パリの外側へ向かって下ってゆく大動脈の一つ。
並木道だが、なにか、東南アジアのうっそうとした並木道を思わせる雑多な雰囲気がある。
ここから、3本のクリシー通りが伸びる。
まずは、Rue de Clichy。リュー・ドゥ・クリシー。
広場から9区をパリの中心へ下ってゆく。
次に、Boulevard de Clichy。ブールヴァール・ドゥ・クリシー。
環状通りで、9区と18区の境をなす大きな通りだ。
最後に、Avenue de Clichy。アヴニュー・ドゥ・クリシー。
17区と18区の境を形成し、パリの外側へ下ってゆく。
すべて、クリシー通りということだ。

メトロ13号線の分岐点、ラ・フルシュ駅付近から、パリの外側へ向かって下ってゆく大動脈の一つ。
並木道だが、なにか、東南アジアのうっそうとした並木道を思わせる雑多な雰囲気がある。
2016.03.10
バルフルールの港 寸景
2016.03.09
トラム博物館 停車路線番号案内
2016.03.08
ポワシー ノートルダム・ド・ポワシー教会
2016.03.07
コンピエーニュ宮殿 サロン・ドゥ・レセプシオン
2016.03.06
ラグラッス村からミネルヴ村へ
ラグラッスでお茶をしたら、いよいよ、本日2つ目の村へ向かう。

珍しく車での周遊となった。
カルカッソンヌ起点でラグラッス、ミネルヴと回る一日だ。
美しい村看板の村を後にして、次の美しい村協会登録村へ向かう。

なにしろ、日本でも、そんなに運転しない。
ほぼ電車に乗り歩く。
たまに自転車。
そんな生活が続いている。
だから、いきなりの左ハンドルで、交差点形式もラウンドアバウトの多いフランスを運転するのは骨がおれる。
しかも、一瞬で読み切れない、アルファベットの町名を見ながらの移動は、緊張の連続といっていい。
運転中のわずかな安堵の時間は、田舎ではとても少ない赤信号中に訪れる。

ところがだ。
とある場所で、いつまでたっても、赤信号が変わらない。
T字路であるから、向こうが幹線で、こちらが田舎道だからなのか?
それにしても遅いなぁ!
そう思っていたところ、ドアの窓ガラスがコツコツと鳴った。
後ろの車のドライバーだった。
「あの信号は故障している。行ってくれ!」
ここは、日本じゃない。
でもね、信号までもこうした状態とは、ちとびっくりだった。
苦労することなく、その信号を曲がり、ミネルヴ村へ向かった。

珍しく車での周遊となった。
カルカッソンヌ起点でラグラッス、ミネルヴと回る一日だ。
美しい村看板の村を後にして、次の美しい村協会登録村へ向かう。

なにしろ、日本でも、そんなに運転しない。
ほぼ電車に乗り歩く。
たまに自転車。
そんな生活が続いている。
だから、いきなりの左ハンドルで、交差点形式もラウンドアバウトの多いフランスを運転するのは骨がおれる。
しかも、一瞬で読み切れない、アルファベットの町名を見ながらの移動は、緊張の連続といっていい。
運転中のわずかな安堵の時間は、田舎ではとても少ない赤信号中に訪れる。

ところがだ。
とある場所で、いつまでたっても、赤信号が変わらない。
T字路であるから、向こうが幹線で、こちらが田舎道だからなのか?
それにしても遅いなぁ!
そう思っていたところ、ドアの窓ガラスがコツコツと鳴った。
後ろの車のドライバーだった。
「あの信号は故障している。行ってくれ!」
ここは、日本じゃない。
でもね、信号までもこうした状態とは、ちとびっくりだった。
苦労することなく、その信号を曲がり、ミネルヴ村へ向かった。
2016.03.05
マンステールで、名物食べながら
2016.03.04
Rue Jean-Baptiste Pigalle ジャン・バティスト・ピガール通りの坂道
印象的な坂道の多い9区。
モンマルトルの丘といえば、18区だと思われるが、丘は、サンラザール駅や、オペラ座付近から始まり、サクレクール寺院で頂点となる。
よって、ここ9区は、モンマルトルの丘のすそ野。

普段は、パリの町に気をとられて気が付かないのだが、視線の先には、緑豊かそうな丘が見えている。
平野の多い欧州大陸であるが、このあたりは、起伏に富む。
その起伏にぶつかり、ぶつかり、セーヌは蛇行しているのだ。
あの丘も、セーヌの流れの向きを変える丘に違いない。

さて、目線を下すと、ブルーのティモテルの看板が目につく。
ティモテル、キリヤード、イビスなど、フランスのお手頃ホテルチェーンは、パリ以外でもお世話になることが度々。
モンマルトルの丘といえば、18区だと思われるが、丘は、サンラザール駅や、オペラ座付近から始まり、サクレクール寺院で頂点となる。
よって、ここ9区は、モンマルトルの丘のすそ野。

普段は、パリの町に気をとられて気が付かないのだが、視線の先には、緑豊かそうな丘が見えている。
平野の多い欧州大陸であるが、このあたりは、起伏に富む。
その起伏にぶつかり、ぶつかり、セーヌは蛇行しているのだ。
あの丘も、セーヌの流れの向きを変える丘に違いない。

さて、目線を下すと、ブルーのティモテルの看板が目につく。
ティモテル、キリヤード、イビスなど、フランスのお手頃ホテルチェーンは、パリ以外でもお世話になることが度々。
2016.03.03
バルフルールの港
2016.03.02