2014.05.31

Place Pierre Bouchard カン・ピエール・ブシャール広場にて

男子修道院から、街中へぶらりと散歩を続ける。
サン・ピール教会方面へ向かい、宿へ帰るために、トラムに乗るつもりだ。
途中のパン屋でおやつを買い、広場付近で食らう。
カン
広場の脇に、サン・ソヴール教会が建っている。
教会の向こう側は、雑貨屋通りとして有名な、というか、雑貨屋さんもある、趣のあるカーブのフロワド通り。

それにしても、フランス中、そこらにある、移動式メリーゴーランドは、もはや、フランスの風景の特徴の一つかもしれない。

散歩の疲れを、人間ウォッチングとリンゴのパイで癒し、宿へ。
スポンサーサイト
2014.05.30

フランスで最も美しい村のひとつEUSへ

Oletteオレット村から、Pradeプラドまでバスに乗って、そこで乗り換えた。
そこで、ペルピニャン行きのバスを探していると、おばあさんに声を掛けられた?
どこへ行くのか?
ペルピニャンと答えたら、ここで乗り換えなさいと言う。
ウス
もちろん、ここで乗り換えることは間違いないだろうが、おばあさんが、お墨付きをくれたのだ。
再度、EUSはバス、停まるの?と聞くと、そうだ!と、スペイン語で答えが返ってきた。
いやいや、ビックリ。
フランス語の答えがスペイン語なんてねぇ。
さすが国境のエリア。
ウス
スペイン語で、イエスの意味である、Si(スィ)であったのだから、聞き取れたのであるが、その後何言っているのか?はっきり聞き取れはしなかった。
もしかしたら、実は、カタロニア語だったのかもしれない。
いや、その可能性の方が高かろう。
つい出ちゃうのが、ここでは、カタロニア語なのだ、きっと。

EUSに着いた。
着いたってのは、風景でわかる。
遠くに、EUSの村が見えているのだ。

ペルピニャンへのバスは、L a Sとなっているから、Lundi(月)からSamedi(土)までは走っている。
日曜は、フランス中、どこのエリアでも、たいてい公共交通機関はない。
2014.05.29

Rue de Crimee クリメ通りの可動橋脇の

19区の中ほどをサンマルタン運河が流れるのだが、ここも、また、セーヌ同様、楽しい橋がたくさん載っている。
4区、12区の間から、10区も通過するこの運河は、可動橋もあれば、太鼓橋もある。
ここ、クリメ通りにも、上下に移動する、バンザイ可動橋があるのだが、その脇に、かわいらしい通り名の標識があった。
パリの道
タイルで造られ、壁にはめ込まれている。
橋を吊り上げる、滑車と、人や車の遮断機の脇。
パリの通り名標識のなかでも、なかなか見ないデザインだ。
2014.05.28

Rue Dusevel デュズヴェル通りの時計越しのアミアン大聖堂

アミアンの大聖堂というのは、正面から撮るのが難しい。
広角レンズがあれば、入らぬこともないが、ピラミッドのごとく三角形の先細りの大聖堂が出来上がってしまう。
で、後ろに下がりたいのだが、下がる場所がない。
したがって、どこかの少し正面からずれた道へ下がって行くことになる。
アミアン
まっすぐではない。
しかし、街と一緒に撮られる大聖堂のほうが、個人的に好きだ。
大きさもイメージできるし、なにしろ、切り貼りしたかのような構図より、”街”の大聖堂に、人を感じられるからかもしれない。
この通りは、大聖堂から南西に伸びるデュズヴェル通り、
2014.05.27

プラハ ハヴェルスカ通りのマルシェ

旧市街広場から、脇を歩いてゆく。
まあ、なんとなく、ミュシャ美術館の方向をめざし、ぶらついてゆくことに。

しばらくすると、フランスでもよく見かける市を発見。
プラハ
いわゆる生活用品から食品が並んでいる。
売っているものなど、国が違えど、そうは変わらない。
かわるのは、その周りにある建物と、それを含めた、全体的な印象だ。
それにしても、重厚で、きれいな建物に囲まれた市場である。

ベトナムに行った時、雑然とした市場のなか、実はかなりきれいに並べられた商品に、ベトナムの人のきれい好きを見た思いがしたが、この国もきれい好きでは負けてはいない。
2014.05.26

シャルトル大聖堂裏にて

小高い丘にあるシャルトル大聖堂。
その大聖堂の裏に、小さな庭園が広がっている。
パリのノートルダム寺院の脇にも公園があるが、こちらは、庭園であって、その落ち着いた雰囲気は印象的だ。
シャルトル
教会の裏手であることを、忘れてしまうかのよう。
どこぞのお城裏の庭園に来ているようである。

ここも漆黒の夜になれば、ライトアップのショーが行われる。
それでも、昼の雰囲気のほうが、静謐といった感じがする。
日本が静寂であれば、こちらは、静謐。
人々が歩いていようとも、ふと、自分自身が、ぽつねんと存在しているかのように、錯覚する落ち着きがある。
石の重量感からだろうか?
2014.05.25

ダゴベルト1世 サンドニ大聖堂

この王が、サンドニ大聖堂を作ったといっていい。
この孫に当たる、ダゴベルト2世は、ダヴィンチコードの話に繋がるわけだが、この王が、ここを墓所に決めたことに、後の発展があったのかもしれない。
なにしろ、今も、有力な観光地なわけで、その影響力は現在も有効なのだ。
サンドニ大聖堂
ひときわ大きいのだが、下の方で横臥しているのが、王なのであろうか?
この王が、親父に怒られるのがいやで、ここにあった小さなチャペルに逃げ込んだが、臣下のだれにも捕まえられない。
そうした、鬼ごっこ神話が、今日に繋がっているそうだ。

大人も子供もない。
話の大きい小さいもない。

こだわったかどうか?そこだけが、違いを生んでいるような気さえする。
関せず、こだわらず、むきにならずが大人のようだと捉えられがちだが、そうではないのかもしれない。
自己満が究極のことなのかもしれぬ。
このひときわ大きな墓石をみると、そう言われているような気分になる。
2014.05.24

カーン サンテティエンヌ・ル・ヴュー教会

男子修道院前庭から写真を撮っていると、正面の大きな教会の背後にも教会が見える。
こちらは、あまり考えずに、ただの証拠写真として撮る。
自分の場合、考えて撮ることより、よほどましに撮れることが多い。
カーン
この教会は、廃墟である。
征服王の時代から建築が始まっている。
英国にまで、出かけていったギョーム2世は、一体、どんな街をここへ創るつもりだったのか?
遠くには、ノートルダム・ドゥ・ラ・グロリエッテのバロック風尖塔のグレーが見える。
2014.05.23

美しい村エヴォルEvolからウス美しい村Eusへ

山あいの村から、再び歩いてオレットへ戻る。
行きはよいよい、帰りは怖いというのは、歌の中だけ。
知ってしまった道を戻るのは早い。
帰りは、ほとんど記憶が無いままに、もう着いちゃったの?と思わせるほど早い。

どの村でもそうだ。
行きは、不安との戦いで、恐る恐るであるが、帰りは知った道であるからであろう。
今”知った”道であって、既に”知っている”道ではないことに留意。
エヴォル
オレットの駅前のカフェに戻る。
カフェの親父の話だと、カフェの前にバスが停まるから、それに乗れ!とのこと。

カフェのちょっと先に、バス停があるが、そのあたり、いい加減であっても、困ることはない。
田舎では、日本でもなければ、誤差なのだ。
エヴォル
電車に乗る予定だったが、バスになった。
バス便があるなんて、思いつきもしなければ、調べもしなかった。
Prades(プラド)行きである。
ヴィルフランシュ・ド・コンフランも停車し、越えて行く。

現在もそうなのか?プラドで乗り換えねば、ペルピニャンには帰れないようだ。
もっとも、電車で移動したとしても、プラドからバスに乗り、途中Eusへ寄ってゆく予定だったから、乗り換えは、既定路線。

意外と混雑しているバスで、いざ、プラドへ。
2014.05.22

Place Nationale 13区の円形小型広場 ナシオナル広場

ロータリー形式の広場といえば、凱旋門のある、エトワール広場が有名だ。
それ以外では、バスティーユが、知名度ではその次だろうか?
ナシオンも大きな広場である。

こうした円形の広場は、地方、郊外の道でも存在するし、欧州の交差点の代表例のように紹介される。
だからといって、どこもかしこも、こうした円形になっているわけじゃない。
たとえば、パリ13区でも、それは数えるほどしかない。
この区の代表例は、区役所もあるイタリア広場であろう。
超小型版が、このナシオナル広場。
パリの道
ここは、高層ビル街、中華街のお膝元であるが、中華街のイメージからは少々遠い。
雑然とした感じの無い、緑あふれる小さな円形広場。
中央には、像が建つ。

その緑の先から、13区は高層ビル街ですよね!と、ビルが覗き込んでくる。
2014.05.21

Rue Victor Hugo アミアン ヴォクトル・ユゴー通り

実は、アミアンには、20年近く前も来ている。
そのときは、ルーアンからやってきて、ここで乗り換えパリに戻ったのだ。
まあ、酔狂といえば酔狂。
ローカル線に乗ってみたかったのである。
アミアン
アミアンの乗り換えが30分ほどあった。
その30分でチャレンジ。
アミアンの大聖堂を見に行って、そして、急いで駅へ戻ってくる。
この、ヴィクトルユゴー通りから見たアミアンの大聖堂をみて戻るのが精一杯だったのだ。
アミアン
ルーアンの大聖堂は、工事中で、前面には、モネの連作の絵で覆われていた。
そういうこともあって、拝んでおきたいと思ったのだが、正面まで行く勇気は無かった。
行っても間に合ったかもしれない。
でも、”とりあえず”見た!という満足感のため、列車に乗り遅れる不安が、見たさに優ってしまったのだ。

今回は、ゆっくり、思い出の通りを写真に収めることも出来た。
2014.05.20

プラハのカルロヴァ通り

旧市街広場から、カレル橋へ向かう路。
その先には、プラハ城があるわけだ。
ここは、プラハ一の目抜き通りといえるだろう。
世界中から訪れる人々は一度は通り抜けてゆく通り。
プラハ
パリなら、観光客が多い目抜き通りといえば、シャンゼリゼ通りということになるのだろうが、ここのこのカルロヴァ。
この幅の通りであるから、この街の散歩は楽しいに違いないと思わせる。
これが、パリとプラハの違いといっていいのかもしれない。

もっとも、大都会パリの場合、観光客の行かないところに雰囲気のよいところが点在しているのであるが・・。
2014.05.19

シャルトル大聖堂の夜景

シャルトルの夜、ライトアップイベントは、日没を待って始まる。
夏の間行われるが、夏の世が更けるのは、深夜といっていい。
日帰りでパリへ戻るには、終電が無い。
うまいことできているものだ!とおもったりもする。
シャルトル大聖堂
シャルトルに一泊し、日付が変わりそうな時間にかけて外をぶらつくことになる。
シャルトル大聖堂の横へやってきた。
いきなり、大聖堂の側面が虹色に光っているのに出くわす。
2014.05.18

サンドニ大聖堂のフレデグンド

歴史の本を読んでいると、出てくるフレデグンドという女性。
クロヴィスの子のうち、パリを領したキルペリクの奥さんの一人である。
元の奥さんを遠ざけて、後妻姉妹たちと血みどろの抗争を繰り広げ、暗殺を繰り返す。
いろんな悪女と呼ばれる人が、それぞれの国の歴史に登場するが、間違いなく、その一人として選ばれるに違いない。
いや、毒婦というべきか?
サンドニ大聖堂
うろ覚えな知識ながら、展示された棺の脇の名前を、フレデグンドと読めれば、あぁあの!と思い出す女性のものだ。
パッと見では輪からぬのだが、よく見てみると、赤や緑やらの宝石のちりばめられた天板。
後世の、またはクロヴィスのように、像が横臥しているわけではないのだが、女性らしい、ここでは一種独特の雰囲気を放っている。
ナスカの地上絵のような、または、エジプトなんかを連想するような、デザインになっている。
こうやって、出会ってみると、ぱらぱら読んだ歴史小説を、もう一度読み返してみよう!と思うのだが、なかなか、手につかぬ。
2014.05.17

カン男子修道院前にて

多くの人の写真に撮られている、男子修道院前。
なにか他の人とは違った構図がないか?
そうやって、レンズを覗きつつ考える。

構図が最初から決まっていないことが問題なのだが、そういう美的センスがあれば、人の全身の絵を描いて、顔だけで画用紙が埋まってしまうなどという、ショボイことはおきぬ。
頭の中に絵が見えていないから、レンズを覗きながら、考える。
いわば、偶然の出会いを待つわけだ。
カン
しかし、偶然、覗いた絵が美しいことはまず無い。
ないなりに考える。
しゃがんでみる、花壇の花をいれてみる。
漠然とではないが、花壇の花の向こうの教会の絵が浮かぶ。
一応、自分の頭にも浮かんではいるのだ。
ここまで書いてそう思う。
もちろん、漠然とであって、目の前の現実の花壇を入れた具体性はない。
頭に浮かんでいるからといって、美的センスがあるわけではないのである。

ラベンダーなのだろうか?
浮かんだ絵とは、全く違う、花というより、草の向こうに見える、修道院の写真が一枚出来上がる。
2014.05.16

エヴォルの花々

エヴォルの村の角。
家の前に花が。
魔よけの陶器のセミみいるが、これは、きっと、コートダジュールのものなのだろう。
一輪であろうとも、多くを飾ろうとも、主がそれで満足すれば、他人にとっても、それなりに心地よい空気ができあがる。
エヴォル
先日、偶然、エレベーター内で妊婦さんたちが話をしているのを聞いた。
通勤途中、なかなか席を代わってもらえぬという話だった。

自分も松葉杖になってはじめて、そう簡単に席を譲ってもらえるわけではないことを知る。
もっとも、いったん松葉杖になると、替われ!と言わぬばかりに人前に立つのも、なんとなくはばかられてしまう。
もちろん、その人の性格にもよるだろう。

男はもちろん、おなかの中に子供がいることを経験できぬが、不便な生活は経験してみないとわからないものなのだ。
大変とか、辛いとかだけではなく、その他のことでの細かい心の動きのことなどは特にそうだ。
世の中には、いろんな性格やタイプの人がいる。
あえて”優先席”というのが存在している理由のひとつをなんとなく知った。
満員電車では、全く意味を成さぬ”優先”ではあるが・・。

不自由な状況にいると、人の温かさと冷たさを両方新たに知る。

現在は、ウォーキングできる状態にまで戻ったが、自分自身が、心の動きを知ったという経験をどう生かすかだ。
花を飾るときと同じような気持ちに、いつも居れるよう。
2014.05.15

Rue Emile Desvaux 住宅街エミール・デヴォー通り

ここまで来ると、パリも端である。
しかも、この界隈、パリで最も標高が高い土地ともいえる。
むろん、パリの最高標高はエッフェル塔に先っぽに違いない。
パリの道
メトロ11号線のテレグラフ駅から、19区方向へ行くと、閑静な住宅街が広がる。
19区、20区とか、11号線といえば、パリでも、そんなに良いイメージではないだろう。
ベルヴィルといえば、下町。そして、中華街。
下町だから、中華街だから雰囲気が悪いとかじゃないが、世界どこへ行っても、大抵西高東低。
西に高級住宅地があり、東に下町が広がるのだ。

ただ、パリの場合、東には、小高い丘がある。
だから、高級ではなくとも、少々雰囲気のよいゾーンが点在している。

やっぱり、金持ちは、上に住んでいる!のかも知れぬ。
もっとも、雰囲気の良い住宅街は、パリの真ん中にはない。

ただ、パリの西。パリを見下ろすサンクルー市あたりの丘の坂の住宅街は、雰囲気の良い、しかも、一見して高級な雰囲気の家々があったりする。
2014.05.14

Rue du Don アミアン ドン通り

大聖堂とサン・ルー地区の境目に、細い通りが2本ある。
その一本は既に紹介した、オケ通りであるが、こちらは、ドン通り。
アミアン
通りの脇を、川が流れる。
川とか、運河というより、水路。
この水路に橋が架かっているのだが、見事にすべての建物に渡しがある。
アミアン
階段の脇を見ると、水路への出口。
船をしまっておく車庫ならぬ船庫。舟屋というべきか。
ソンム川へ出てゆく、引込み線。
アミアン
潮来の水路じゃないけれど、ここにもある、遊覧船に乗ってみたくなる細さ。
舟に乗りたいというわけではなく、この路を通過したいという願望。
その水路の脇を、ドン通りは通っている。

水路沿いの建物の表玄関は、調べたわけじゃないが、オケ通り側なのだろう。
どちらが表で裏かはわからぬが・・・。
2014.05.13

グラーシュ プラハにて

グラーシュがおいしいというので、プラハでは、それを食べることも目的のひとつ。
この中欧でよく食べられるものみたいであるが、これを食べるのは初めて。
言ってみれば、ビーフシチューにポテトパンがついていて、たまねぎが乗っている。
グラーシュ
高いところじゃ、食べられないから、安そうなところを物色する。
一度食べたが、他のところでも食べてみようと思ったので、2度食べることになった。
グラーシュ
お肉はともかく、しっとり系のパンにソースがついたものがいい。
もともと、うなぎのたれがかかったご飯好きという自分にとって、こういう"汁付きでんぷん質"には目がないのだ。

上手に写真を撮ろうと思うのだが、どう撮っていいのか?
角度を変えようが、よってみても、引いてみても、なかなかうまくはいかぬ。

2014.05.12

シャルトル大聖堂の主たち

シャルトルの大聖堂には、多くの彫刻が施されている。
そのなかでも、コケティッシュな奴がいた。
これは、魔よけなのか?
そして、そもそも用途は樋なのか?

雨どいといえば、ガーゴイルが主流で、おどろおどろしいのではあるが、まっすぐで、しかも、まぬけなほど口を開いたところが、見ようによっては、愛らしい。
つい写真をとりたくなる。
シャルトル
それにしても、これは、いまひとつ用途がわからぬ。
そして、愛らしさも、抜群である。
ねずみと猫と、ゴリラなのか?
馬とライオンと鬼なのか?

左の奴は、口も開いておらぬ。脚だか?ワンレンの髪の毛だか?は左右に覗いているのだが・・。
2014.05.11

サン・ドニのクロヴィス1世

パリの左岸に丘がある。
ノートルダム寺院から川を渡り、ちょっと行ったところの丘だ。
聖ジュヌヴィエーヴの丘だ。
ここに、今も、"クロヴィス"通りの名に残るように、クロヴィス1世が葬られていた聖ジュヌヴィエーヴ修道院があった。
ここから、サンドニに改葬されたそうだ。
もっとも、この棺が、クロヴィス1世の聖ジュヌヴィエーヴ修道院に置かれていたものなのかどうかはわからぬ。
ただただ、展示横に書かれた文字から、クロヴィス1世と知るだけである。
サンドニ大聖堂
この王が、キリスト教に改宗した。
6世紀初頭に亡くなっている。
日本はこの6世紀に仏教が伝来していることを考えると、ある意味国の宗教の歴史は似ている。
いまや存在も疑われる聖徳太子が摂政になったのが、6世紀最後の593年である。
2014.05.10

カン・サンテティエンヌ大聖堂

ウィリアム征服王、いや、ギョーム2世が、ここに眠っている。
王妃マチルドは、対となる女子修道院に墓標があるが、それはまた後で訪れるとする。
教会の真ん中に、こうして墓標がある人は、そうはいまい。
ほんの少しだけ、歴史をかじっておけば、見た瞬間にああっと、感慨ひとしおである。
バイユーの世界遺産タペストリーを見たあとの方が、良いのかもしれぬ。
カン・サンテティエンヌ大聖堂
ノルマンディと言えば、第二次世界対戦の舞台。
このステンドグラスも古いわけでは無さそうだが、とすれば戦争か、革命のどちらかが理由かと、思ってしまう。
ギョーム2世も戦ったわけで、100年戦争のきっかけと言えぬわけでもなく、歴史は、戦いの系譜と言えなくもない。
カン・サンテティエンヌ大聖堂
911年にノルマンディ公国はスタートしている。
その当時のカロリング朝が替わり、カペー朝は987年スタートだから、なんらか思うところあったかもしれない。
カン・サンテティエンヌ大聖堂
ここは、ロマネスク。
カペー朝は、ゴシックを創始するが、ここができて100年の後のことになる。


2014.05.09

エヴォルの谷

個人的にもっとも好きなエヴォルの場所は、村の入り口だった。
谷あいの村というイメージにぴったりの場所で、古き石造の家々の稜線が山々の稜線のように溶け込んでいるのだ。
この村に限らぬが、雲が浮かべば、山に雲の形の影ができる。
こうしたところでは、その雲の陰絵も楽しみの一つなのだ。
エヴォル
さて、骨折してから、3ヶ月が経つ。
手術してからは、2ヶ月だ。
骨折前は、王子から北千住か、北千住から上野ウォーキングであったが、最近は、赤坂近くの溜池山王から渋谷までの道のりを歩いている。
まだ、ガッタンバッタンとしていて、普通に歩けぬが、リハビリかねて歩いている。

2014.05.08

Rue de Tolbiac トルビアック通りの壁

メトロ14号線の終点オランピアード駅。
市の中心部から再開発地域へ伸びるこの路線。
その中でも、古い再開発地域が、ここ、パリの中華街なのである。
パリの道
ただの中華街ではない。
高層ビルの林立する場所が、中華街に変貌したのだ。
中華街というか、ベトナム街というか。

中華街と思って駅から外に出ると、オフィス街へ来たか!と思わせる高層ビルがの壁が待っている。
ちょっと歩けば、すぐ、アジアの風と匂いと色に出くわすことになるのだが・・。
2014.05.07

アミアン Rue de Beauvais ボーヴェ通り

ピカルディ地方の北東部は、赤レンガの建物が多いというガイドブックを読んだことがあるのだが、アミアンも、パリとは全く違う赤レンガの町だ。
トゥールーズも赤レンガで有名、ばら色の町と言われるが、ここは、ばら色より、幾分落ち着いた、重厚間あるイメージだ。
アミアン
ぶらぶら歩いていると、趣のあるカーブに出くわした。
少し幅広の道に、重厚間ある建物とカーブで、安定感抜群の構図が出来上がる。

アミアンのこの界隈、地名のついた通りが多いようだが、ボーヴェは、アミアンの南50キロほどのところにある、同じピカルディ地方の都市名。
このみちを逆側へ向かってゆくと、ボーヴェ方向になる。
言ってみれば、ボーヴェ街道というべきか?
川崎街道が府中に、府中街道が川崎に・・・みたいなものと、勝手に解釈しておく。

パリのポルトマイヨーから、ボーヴェ行きのバスがでているが、ボーヴェがパリの空港に一旦を担っている。
アミアンとパリの丁度中間点が、ボーヴェになる。
2014.05.06

プラハ城バックにマーネス橋の上を走るトラム

マーネス橋という、カレル橋の一つ下流の橋は、トラムがプラハ城背景になる場所である。
夜に撮ったらどうなるのか?
それを楽しみに出かけたのだ。
プラハ
ところが、これが結構むつかしい。
車が連なって、トラムが隠れてしまったり、撮れたかと思いきや、完全なる手振れ。
そうこうしている内に、すぐ近くの音楽公会堂ルドルフィヌムから、大量の人があふれ出て、前方が人だらけになってみたり・・・。

一回トラムが行ってしまうと、次まで随分待たねばならぬのだ。
なんとか、ワンカットだけ、らしいものが撮れた。
車両は新しいデザインのものだ。

是非、次回、リベンジへ。
2014.05.05

シャルトルのエロトワ・デグレ通り Rue de l'Etroit Degre

シャルトル大聖堂の脇、大聖堂前の観光局脇の道。
可愛らしかったので一枚。
シャルトル
駅からまっすぐ大聖堂に来たのなら、観光局へ行くことができる。
今回は、大聖堂の丘をぐるりと回って、宿へ荷物を置いてから出発。
そのため、最初は大聖堂の裏から登ってきた。

とにかく、ぐるりと回り、とりあえず中へ入り、またぐるりと回る。
脇から抜け出て、観光局を目指すときに、ここを通りかかったのだ。

とにかく、地図を!と思って目指したのだが、結局観光局で、お土産も買ってしまう羽目になったのだが・・。

名前のエトロワは狭いの意味。
この通りは確かに狭い。
だが、れっきとしたrue"通り"である。
2014.05.04

サンドニ大聖堂のアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシス

語学学校のフランス人の先生に、こんなことを言われた。
「フランスには文化がなかったが、イタリアから持ち込まれた。それは、中国と日本の関係に似ている。」と。

日本通ではないが、台湾などへ生活経験のあるフランス人の話だけに、なるほど、そういう日仏比較もありうるのだと、思わせてくれる。
サンドニ大聖堂
フランソワ1世という王が、イタリア戦争の結果、ダヴィンチらを招いて、多くの文化を吸収する結果となった。
その子、アンリ2世は、イタリア人妻である、カトリーヌ・ド・メディシスを娶った。
この人も多くの文物をフランスへもたらした人である。

アンリ2世とカトリーヌの横臥像を見ると、王の横にいるのは、この私であるという、カトリーヌの強い意思を感じるのである。
2014.05.03

カンのロロン公袋小路にて

男子修道院の塔のある場所で、左に折れると、その先に袋小路がある。
アンパスIMPASSEであるから、パスできない通り、袋小路である。
その名は、ダック・ロロンとなっている。
ロロン公袋小路である。
カン
下に、短い解説がある。
911年から927年ごろの初代ノルマンディ公。
カン
911年といえば、サン=クレール=シュール=エプト条約が結ばれた年。
後の印象派巨匠、モネん家から向こうがノルマンディになった年。
フランスとバイキングの首長ロロンとの間で、ヴァイキングたちに土地が与えられた時だ。
ノルマンディー公国の誕生である。
ロロンの100年後に、ギョーム2世こと、ウィリアム征服王が誕生するわけである。
カン
ウィリアム征服王は、ここ、カンに眠っているが、初代は、ルーアン大聖堂にいる。
北ノルマンディは初代ノルマンディー公が、南ノルマンディは初代ノルマン朝英国王が、今も君臨しているかのようだ。
その通りがこうして肩を並べている。

それにしても、この袋小路から、いや、正面から見ない男子修道院の塔は、圧倒的存在感に変わる。
2014.05.02

エヴォルのルドヴィック・マッセ

パリでも、パリ以外でも、それぞれの街に有名な出身者がいる。
へぇ、ここなんだという人から、初めて名前を聞く人まで。

フランス史はともかく、世界史すらまともにやってこなかったから、知っている人が少ないのではあるが・・。

有名人のばあい、生家や居住していた家自体が観光地や博物館になっていることもある。
また、通りの名前になっていると、その人が、どんな人であったか?を、通り名看板に書かれた説明で、職業や時代を知ることができたりする。
ヴィクトル・ユゴーなんて、いったい何本の通りがあるのだろう?
エヴォル
エヴォルの村にも、有名人の生家があった。
このプレートのある家で、ルドヴィック・マッセが生まれたとのことだ。
小説家であり、つい最近まで、ご存命だった方である。
全く知らなかったのだが、ネットで調べて見れば、画家のデュフィのことを書いている。

この撮っても小さな情報が、もしかしたら、どこかで、何かにつながるかも知れぬ。
いつかあるかもしれない何か?のために、写真を撮っておく。
その土地を訪れたというのも、何かの縁。
世界が広がるきっかけになるかも知れぬからでもあるが、単にミーハーな気持ちからでもある。