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2014.04.30

Rue du Hocquet アミアン オケ通り

ノートルダム大聖堂とサンルー地区の間。
大聖堂の下と行った方がいいかもしれない。
その辺りも、独特の雰囲気がある。
アミアン
この通りは、オケ通り。
車が通ってゆくような通りではないが、うなぎの寝床のように、長い路地のような通りがある。
上から階段を下りてくるときに一枚。
街灯もあるので、都会によくある、なんとか横丁といった感じ。
歩いている人の背中の哀愁が、そんな気にさせるのか?
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2014.04.29

プラハ 音楽公会堂ルドルフィヌム前

二日目の夜になった。
カレル橋からの夜景はとりあえず撮った。
この日は、トラムの夜景を撮りに出かけてみた。
鉄道の写真を撮ることはあるが、それ目的でホテルを出たのは、生まれて初めてだったかもしれない。
プラハ
カレル橋のひとつ下流、マーネス橋の袂にあるコンサートホール、ルドルフィヌム手前の駅に停車するトラム。
チェコは雨が多いらしい。
雨上がりだったが、そのため、路面と車両が闇夜に光って浮かび上がることに。

この日の、目的は、この先のマーネス橋の夜景。
2014.04.28

シャルトル大聖堂

大聖堂の上に登ってみた。
見渡す限りのボース平野が見えることを期待した。
ところが、遠くにボーっとボース平野が見えているといった感じだ。
シャルトル大聖堂
やはり、シャルトルは大きな町。
ただ、目の前にあるはずのウール川の谷も、こうして写真で見てみると、たいして凹凸もない。
それだけ、この大聖堂の規模がでかいということだ。
それは、ずーっと向こうまで広がる家々の事も含めてだ。
2014.04.27

サンドニ大聖堂の銅像

ルイ16世とマリーアントワネットの像。
サンドニ大聖堂のフォトジェニックナンバーワンの場所であろう。
もっとも、これが、棺なのではなく、遺骨は地下クリプトに。
サンドニ大聖堂
王とか教会とか、既得権益にかかわるものが破壊されたフランス革命。
封建制が滅び、共和制になるわけだが、王の歴史の象徴であるサンドニに、この二人の銅像が今ある。
それを、自分自身が見ていることに、ふと、平和を感じたりするのである。

それにしても、ここ暗いので、私の古いデジカメでは、手振れはもちろん、ピントすら合いづらい。
2014.04.26

カンの男子修道院の塔

征服王通りを歩いていると、ようやく、お目当ての塔が見える。
思ったほど、大きく感じない。
周りの建物があるからなのか?
実際、そんなの大きなものではないのか?
巨大な大聖堂を見慣れてしまうと、思ったほどではないように感じる。
カン
下の重厚間、平たい無装飾の壁面と比べると、上に、少々細工の施された鉛筆が乗っている様なイメージのロマネスクだ。
丁度、周りの建物と教会下層部分が同じ高さであるからか?鉛筆部分だけ飛び出したような感じが、なんとも不調和な感じを受けるのだ。
まあ、なんだか下層部が、ダムの壁に見えなくもない。
カン
この教会。
通常、目の前が最も圧倒される場所であるはずなのだが、これに限って言えば、正面から見たときだけ、大聖堂、大修道院から町の教会になってしまう。
それとも、大修道院とか、歴史とか、由緒とかの先入観の想像と随分違ってしまうからなのだろうか?

個人的には、そのイメージのズレが相当気になったのだが、他の人は、どう思うのだろう?
2014.04.25

エヴォルの道しるべ

このあたりは、昔、カタルーニャであった。
いや、いまも、フランスではあるが、北カタルーニャなのだ。
通り名看板もCARRERとなっている。
おそらくカタルーニャ語なのだろう。
エヴォル
フランスは、イル・ド・フランスの拡大系である。
東を見れば、最後の授業の舞台にもなった、アルザス・ロレーヌ。
南東には、イタリア統一のガリバルディ出身のコートダジュールといった地方。
スペイン国境は、カタルーニャにバスク。
西にはブルターニュ。ここも言葉が違う。
北にはフランドル。世界遺産は、ベルギーフランスにまたがる鐘楼郡というのもある。
エヴォル
法の及ぶ範囲を示す国境は、現在もあるが、経済、文化、言葉、人、物、土地に境はない。
いろんな境界がはっきりしやすいる日本という国に住んでいると、そのあたり、自ずと考え方、捉え方が違ってくるだろう。
何カ国行ったとか、フランスという国へ行ったという色塗りは、文化面から見ると、あまり意味のないことなのかもしれぬと思わせる道しるべである。

2014.04.24

Cité Bauer シテ・ボエのハート

シテ・ボエは一月ほど前載せた。
この通りの目当ては、この下の写真だった。

随分昔にこの界隈を歩いた。
散歩のガイドブックに、ハートの形の門扉が載っていたので、それを見に来たのだ。

グルグル歩いたが、見つからぬ。
このシテ・ボエという通りは、一体どこからどこまでかわかりづらい。
地図を見ても、発見できなかったのだ。
そのリベンジにやってきた。
パリの道
さて、門扉。
なんと、大小のハートでくりぬかれている。
なんともいえない味なのは、柱部分まで、ハートがめり込んでいることだ。
そこが、この門扉の愛らしさとなっているのかもしれない。
パリの道
手作り感でいいねぇ。
なんだか、帰るのも、見えてくるのも楽しくなるお家はいいね。
もちろん、中もね。
これの好き嫌いはあろうけれど、それに関わらず、そんな事を思わず思っちゃう門扉。

特に、この門扉のデザインが好きなわけじゃないけれど、一度会えなかっただけに、余計にそう思うのかもしれない。

2014.04.23

アミアンの古き家

はっきりと場所は覚えていないが、アミアン大聖堂付近の旧市街であることは違いない。
そのカテゴリーのフォルダに入っているからだ。
アミアン大聖堂の前だったような気もするし、そうでないような?

写真の整理をきっちりやっておかぬと、場所の記憶は、頭の外へ行ってしまう。
アミアン
撮った、帰って見た!ならいいのだけれど、ブログに載せようと思うと、どこだっけ?を正確にしたくなる。
が、時間がたってしまえば、後の祭り。

後の祭りといえば、美術館でよく見かける、ヨハネの首をもつサロメの絵があるが、この頭部といわれるものが、アミアンにあるなんて話も、この町へ行った後に知った。
大聖堂ライトアップがあることも、帰国後に知った。

行く前にも、行った後にも、もうちょっと調べたり整理しておけば、後悔することは少なかったのかもしれない。
もう一度、アミアンへ行きなさいということだと解釈しておく。

縁のある土地は再び訪れるそうだ。
いつか再び、アミアンへ行く理由ができたのだから、自分に縁のある街にちがいない。
そのために、今、ブログという形で整理しているのだ。
2014.04.22

プラハの天文時計 夜景

広間も来て、写真を撮ったのだが、夜も再び、写真を撮ることに。

実は、この目の前で、アイスクリームを売っていたのだ。
秋だったから、夜は随分と寒い。
結局、悩んだ末、買わなかったのだが、替わりに写真を一枚。
プラハ
アイスクリームの売り上げが、金沢が日本一という話を聞いたことがある。
暑すぎても売れないから、沖縄が日本1位ではないのだそうだ。
こんな、秋の闇空の下、ここでアイスが売れるのは、チェコも、暑すぎぬ中欧故なのだろうか?
と考えてみたりする。
2014.04.21

シャルトル散策 ウール川沿いを行く4

ウール川沿いを、大聖堂の下から歩いてゆくと、川沿いの道ではなくなってゆく。
川を見るのは、橋の上からだけとなる。
シャルトル
随分と離れたところまできて、サンティレール橋の上へやってくる。
大柳?の向こうに、大聖堂の尖塔が見えている。
この辺りで、ちょっとしたウール川散策は終わりをつげる。
ここから、橋を渡って、サン・ピエール教会を経由し、再び、丘の上へと登ってゆく。
2014.04.20

サンドニ大聖堂のステンドグラス

サンドニの大聖堂にも、ステンドグラスが描かれている。
個人的には、この大聖堂をゴシックにした、シュジェールが、下のほうに這うように描かれているステンドグラスが、一番の印象であるのだが、その這っている姿ばかりが印象に残っていて、その絵全体はイメージとして残っていない。

さて、その他のステンドグラスできれいなものがあったので一枚。
サンドニ
よく見ると、下のほうに文字が描かれている。

1837年7月24日 フランス人の王ルイ・フィリップは家族を伴って、サンドニの王家の修道院の地下墓地を訪問。
とある。

そのときのものをステンドグラスにしたということなのだろう。
この王が若かりし頃、フランス革命が勃発しているから、王がここを訪れたときは、廃墟の様になっていたのかも知れぬ。
パフォーマンスはともかく、どんな心境だったろうか?
自身は、ルイ14世の弟の家系であったはず。
とすれば、荒らされた教会は、自身の祖先に当たる方の墓所だったことになる。

このステンドグラスは、”このように、子孫はがんばっております”という、示唆だったのかもしれない。
2014.04.19

カンのウィリアム征服王通り

男子修道院の脇に、Rue Guillaume Le Conquerantギョーム・ル・コンケラン(ウィリアム征服王)通りがあった。
思わず通り名の看板を一枚。
時代は違うが、源頼朝通りってな感じだろう。
カン
この通りの脇にある、男子修道院に彼が眠っているのである。
通りに出て、上を眺めれば、その修道院の尖塔が、この征服王の通りを見下ろしている。
カン
ノルマンディ上陸作戦が行われる900年も前。
その逆の英国上陸を果たした王が、征服王である。
隣町ともいうべき、バイユーに、世界遺産になったタペストリーに、その事績が編みこまれている。
タペストリーそのものも、歴史的価値があるのかもしれぬが、そこに描かれる、上陸作戦という難しい作戦を敢行成功した、この王の事績も稀有のことであろう。
2014.04.18

エヴォル 花一輪

この花がフランスではよく見かけるゼラニウムなのかどうか?
ゼラニウムだとしたら、これを花一輪というのは、ちと違うのかもしれぬ。

ゼラニウムは、欧州原産なのではないのだそうだ。
だが、不思議とこの花は欧州の窓辺に合う。
この花は、ゼラニウムではないとしても、きっと欧州のものではないのであろう。

イメージ写真を見たわれわれは、窓辺に咲く赤い花々をセットに、ヨーロッパを記憶してしまっている。
エヴォル
花だけでなく、木々も、落ち葉も、苔も、水も、道も絵にしてしまう日本庭園はともかく、欧州の花々も絵になるのだ。
日本の美とは、ある種、対局にあるが故、洋の西という、異文化を強く感じられるのかもしれない。

調和対主張であろうか?
人の心性にも関わっていそうである。

窓辺に花があるだけで、通り抜ける風も伝わってくるかのようである。
2014.04.17

Place des Fetes フェット広場にて

コンコルド広場、エトワール広場・・・。
パリにはさまざまな広場があるが、何々広場と、Place部分は広場という日本語に置き換えて呼ばれる。

この、19区の南端にある、大きな広場は、フェット広場と呼ばれることよりも、プラス・デ・フェットといわれることのほうが多そうだ。実際、パリに住んでいる方達をアンケート調査したわけではないので、あくまで、自分の周りだけでの話。

ガイドブックに載っていない。
広場名を、日本語に置き換えにくい。
何々広場という単語にしてしまうと、どこのことだか?わからなくなる。

そんな理由から、プラス・デ・フェットという、駅名でもあるこの呼び方がしっくり来る結果となったのだろう。
パリの道
パリにしては、ずいぶんと高い標高にある、パリ有数のコンクリートジャングル広場である。

近くをぶらぶらしていたら、乾いた、発砲音が聞こえてきた。
発砲音というか、もっと、大きい爆発音に近い。

恐る恐る、向かってみる。

何だろう?と振り向きはするものの、何事もなかったかのように、人々が行きかう。

メトロ駅乗り場前のこの広場。

爆竹にしては、大きな音だったように思ったが、何か機械が壊れたのか?
子供達のいたずらか?
そんなことも、日常茶飯事だよと、広場全体が語っているように感じられた。
2014.04.16

アミアン オルティヨナージュの水辺

湿地帯の散策は続く。
こんな風景になると、ここは畑ではなく、公園だ。
実際、ソンム川と、湿地帯を抜ける水路の合流地点は、畑ではなく、こうした緑地帯になっている。
アミアン
一方、ソンム川の反対側は、アミアンの川沿いの家々が並ぶ。
川へ、すぐ出られるように、出口があって、船が浮かんでいる。
アミアン
平地が多く、面積も日本の1.5倍もある国は、詰め込みすぎない余裕がある。
決して、日本人が思っているほど、日本は狭くはないが、山が多く、使える土地は、フランスに比べるとずいぶんと少ない。

2014.04.15

プラハ 旧市街広場 ヤン・フス像

ぶらぶら、夜景散歩の帰り道。
旧市街広場のヤン・フス像が、ティーン教会前でシルエットになっていた。

この人のことは、この広場にやってくるまで、全く知らなかった。
もちろん、最初に見たときは、なにか、この国の王様の像でも立っているのだろうぐらいの感覚であった。
プラハ
ガイドによれば、15世紀になくなったのだそうだ。
あの、ジャンヌ・ダルクと同じように火あぶりで。
しかも、このヤン・フスと入れ替わるように、ジャンヌダルクがこの世に出現している。

思想でつながる二人なのではない。
当時の都合によって、異端にされ、犠牲になったのだ。
その二人とも、出身国で、聖人になっているのである。
2014.04.14

シャルトルの自転車たち

シャルトルの町を散策していると、地上ロックの自転車を発見。
よく見ると、
青が、GIANT。
赤が、GITANE。
似てる。
シャルトル
ジャイアントが台湾、ジターヌがフランスの自転車である。
日本でよく見かける、GIANTジャイアントは知っていたので、GITANEジターヌは、ジャイアントの偽者であると思い込んでいた。
しかし、れっきとした、フランスの自転車なのだそうだ。
じっさい、相当数のGITANEジターヌをフランスでは見かける。
偶然にも、青と赤という色まで対比させたように置かれた、GIANTとGITANEに出会ったのである。
2014.04.13

ジャンヌ・ダルクとサンドニ

ジャンヌダルクのパリ攻囲戦。
パリで怪我をした、ジャンヌダルクが、ここで祈りをささげたのでしょう。
彼女の武器を、奉納したとのこと。
日付は、1429年9月13日火曜日。
そんなプレートがサン・ドニ大聖堂にある。
サンドニ
ここから、まっすぐ南下してゆけば、パリの18区のラ・シャペル地区に到達する。
その、ラ・シャペルにも、サンドニ教会と、ジャンヌダルク教会が肩を並べて存在しています。
王権の再興を望むジャンヌ・ダルクにとって、この王家の墓、王のご先祖が眠っている大聖堂は特別だったに違いない。
その当時は、フランス革命前だから、実際に歴代王が、ここに、いらっしゃったわけであるから。
2014.04.12

カン Rue Saint-Manvieu サン・マンヴュー通りからの眺め

先日載せたフォ・サン・ジュリアンという通りの続き、サン・マンヴュー通りからの眺め。
この通りまで達した時に、標識と、屋根の上に突き出た、男子修道院の配置コントラストが面白かったので一枚。
カン
大小さまざまな、線対称n図形が、一枚の中に入り込んでいる。
あるものは、横向きに。
あるものは、縦に。
いろんな形はあれど、モノトーンなのが、図形を並べたようで、面白く感じられるのかも知れない。

大きな建造物は、遠景、近景、さまざまな顔を見せてくれるから、ついつい、多く撮ってしまうのである。
2014.04.11

エヴォルのごみ箱と分別

エヴォルの町はずれにやってくると、大きなゴミ箱があった。
あちらこちらのごみ箱の写真を撮っているが、グレーとグリーンが圧倒的に多いと思われる。
ここは濃い緑。
エヴォル
そして、ごみ投入口に緑と黄色がある。
パリのごみ箱も、ふたの色で区別する。
緑、黄色、白、青。
ここも同じである。
視覚に訴えた方が、記憶しやすく、間違いにくく、分別しやすいということなのだろう。
ドイツの空港なんかでも、ずいぶん前から、ごみ箱に色わけされていたと思う。
エヴォル
さて、よくみると、どうやら、紙やパック類が黄色。
すなわち、リサイクル系が黄色のようだ。

燃える燃えないという分別が多い日本とちがって、リサイクル可不可が基準である。
日本でも回収する自治体が基準をきめるのであろうが、こちらもそうなのであろう。
だから、地域によって、ごみ箱の形も色も違うのだ。
2014.04.10

Pont de Bercy ベルシー橋の真ん中で

ベルシー橋といえば、その美しい姿。
背後の近代的印象的建造物、フランソワミッテラン国会図書館を背景として、写真になることも多い。

その橋の中央に、メトロ6号線が走っており、RATPのサイトでも、トップに使われていたこともある。
パリの道
そのメトロの下が、自転車道になっていた。
美しい橋を支える柱がどこまでも続く。
フランスらしい、シンメトリーの自転車道の出来上がり。
2014.04.09

アミアン オルティヨナージュの畑

ぶらぶらと散歩していると、畑に遭遇。
この畑が、ここのメインなのであろう。
小麦畑のような、フランスの畑のイメージではなく、ガーデニングに近い雰囲気なのだ。
菜園というべきであろう。
丘に広がる畑ではなく、川沿いの湿地帯だから、当然雰囲気は違う。
アミアン
なんとなく、懐かしさがあるとすれば、その湿地ゆえの風景の湿度感なのかもしれない。
緑がウワーッ!とある。
水分の多い緑なのだ。
日本の風景に近いからなのだろう。
アミアン
農業やったことがないので、わからないのですが、こうした川が運んできた堆積土もあるような湿地帯の土が、良い土壌なんですかねぇ。
手前に可愛らしく花など植えてあるのを見ると、、風景、食を楽しんで、生活しているように感じられます。
2014.04.08

カレル橋手前のトンネルを抜けてゆくトラム

カレル橋からプラハ城の写真をあれやこれや撮った帰りの写真である。
それにしても、アジア人が多いのだなぁという感想を持ったカレル橋。

どうやら、韓国の方が多い。
ついで中国の方であろう。

最近は、フランスでも中国の観光客と多く出会う確立は高い。
有名観光地に行けば、必ずといっていいほど。

世界遺産へ行けば、日本人観光客にあふれている。

そんなイメージからすると、ここ、プラハのカレル橋では、韓国の方の割合が圧倒的であった。
ソウルから、大韓航空がプラハまで直行便が飛んでいる。
その、行きやすさが、こうした状況を作り出しているのであろう。

日本からプラハも直行便が飛べば、この橋の上の様相も少々変わるのかもしれない。
プラハ
さて、トラム。
街中とはいえ、暗いところを動く車両を撮るのは難しそうだ。
ぶれている写真もあったが、何とか撮れた。
2014.04.07

シャルトル大聖堂の聖母のステンドグラス

夜のライトアップでも、大聖堂正面に現れる聖母像。
そのステンドグラスは、青が有名なシャルトルにおいて、赤の印象的なデザインだ。
それでも、聖母の着ている服はシャルトルブルー。
正直、こうして撮った写真も、実際の色を表しているとはいえない。
光の加減もあるし、これは、見て感じるしかない。
写真は、単なる記念。
シャルトル
それにしても、ここのステンドグラスは、どれもこれも、愛らしさのある絵のようなステンドグラスが多い。
計算されつくした美しさではなくて、ありのままに筆をはしらせたような、ステンドグラスが多いのだ。
その象徴のように感じられる、この大きな聖母のステンドグラス。
2014.04.06

サンドニの聖エルテールと聖リュスティック

聖サンドニは、モンマルトルの丘で殉教し、首を持って歩いて来た。
この、聖サンドニには弟子が二人。
聖エルテールと聖リュスティック。
どちらも、モンマルトルの通りに、その名をとどめている。
サンドニ
その二人が、サンドニ大聖堂の正面にいると聞いて、それを探してみた。
このクサリに繋がれた二人が、そうなのであろうか?
片や、自身の首を持つ師匠、一方の弟子二人は鎖につながれて、ここまでやってきた・・・わけではあるまい。
鎖につながれて、モンマルトルに連れて行かれたのであろう。

三人は首を刎ねられ、師匠だけは、この地まで、首を持って歩いて来た。
そのストーリーは、サンドニ大聖堂のこの場所と、モンマルトルの道の名前だけに、名残をとどめている。
2014.04.05

カン Rue de Geôle ジョール通り

カーン城の前の通りである。
トラムが走る通りで、旅行中、最も世話になった通りである。

ハンバーガー屋のクイック。
この近くにある、コインランドリーで選択している間は、このクイックでお茶。

観光局側へ歩いてゆくと、トラムやバスのTwistoの事務所がある。
ここで、バスの時刻表やら、トラムバスの3日間券やらをてに入れた。
カン
とくに、海沿いに行くには、Bus Vertという、カルヴァドス県の長距離バスも便利であるが、ここから近い海などは、路線バスでも行けちゃうのだ。

写真は、この通りにある古い家と、その前を行き来する多くの車たち。
2014.04.04

エヴォルのパレットたち

最近、エヴォルのオフィシャルサイトを見ていたら、こちらの看板たちが載っていた。
ここへ移り住んで、アート活動を行っている家の人のものなのだろうか?
エヴォル
どちらも、パレットに絵を描いたもののように見える。
記憶は確かではないが、ゴッホで有名なオーベル・シュル・オワーズの村にあり、ドービニーのアトリエに訪れたとき、ドービニーのパレットが展示されており、そこに、いかにもドービニーという絵が描かれていたのを思い出す。
エヴォル
実は、パリのBHVでパレットを買ったことがある。
絵心じゃない。
フランスでもらった資料やカタログをきれいに持って帰ろうと考え、文房具を見に行ったのだ。
しかし、適当なサイズのケースがない。

そんなとき、レジの近くの特売コーナーで売っていたのが、木のパレットだった。
クリアファイルとこれで、きれいに持っていけそうだ!
そう思ったので、800円ぐらいで購入したのである。

絵心のない人間の考えることは、常に”便利と合理”だけなのだ。

いまでも、忘れなければ、ショルダーカメラバッグの脇に、縦に刺して持って歩いている。
2014.04.03

Place de la Réunion レユニオン広場の桜

パリ20区。
まん丸い広い広場。
通ったり、集まるのは、地物と人ばかりであろう広場。
人々の集まるという名の、集会所広場の一角に桜が咲いている。
この桜は、年中枯れることがない。
どこか、日本の山里の桜の風景の様である。
この界隈に暮らす人々も、この桜と共に時を経てゆく。
パリの道
日本も、今が、桜の時期。
関東は、満開。
日本の散りゆく桜も、今週末まで、もってくれないかな?
花冷えらしいけれど、ピンク色の週末の匂いを感じたいものだ。
2014.04.02

オルティヨナージュ寸景 ガーデニング

農地になっているところもあるのだが、川沿いには、家々も建っている。
住んでいる方もいるのだろう。
アミアン
ごらんのように、花と緑の庭に囲まれた一軒屋。
ちょっと、理想の住宅地のイメージ。
日本だったら、夏、蚊の発生を気にしなきゃならんような湿地帯も、ここでは、水辺の快適地になるのであろう。
アミアン
随分昔、英国式庭園とフランス式庭園という大学の授業があったが、きちんと出席していなかったので、まったくその知識はない。
ただ、タイトルだけが、耳に残っている。
興味が自分自身あったのだろう。
しかし、大人でありながら、意識子供で、勉強する気のまったくなかった私は、遊んでいたのである。

さて、写真を見るに、英仏折衷なガーデンであると思われるが、どうなのであろう?
2014.04.01

プラハ城夜景 カレル橋から

プラハに着いた。
夜になった。
旧市街広場へ行った。
カレル橋へ行った。
プラハ城の夜景を撮った。
プラハ城
まずは、このお決まりのルートなのであろう。
橋の欄干に肘をつき、一枚とって、また一枚。
少し動いて、また一枚。
いったい、プラハにいる間に、何枚撮ったことであろうか?

世界中の観光客が、同時に同アングルで撮っている。
この日だけで、一体何枚のプラは城夜景写真が撮られたのであろう?

通らねば、そのやり残し感が半端ないのだから、経由せざるを得ない。